怖くて夜トイレに行けなくなった7歳の子

「今日はひど~遅くなったな~。じゃが、この峠を下りたらもう加茂谷じゃ。さあ頑張れや!」
と、萬作が馬車を引く馬をけしかけたとたん、馬はピタッと凍りついたように動かなくなってしまいました。

これは、明治半ばから大正年間に、木炭卸商として財を成し、備後福山からの東城街道で一番といわれた、『こだま店』の繁栄を築きあげた、タマおじさんの曽祖父、萬作が若き日に本当に出会ったこわ~いお話です。

現在の福山市北部の加茂町下加茂地区の東城街道沿いに、駆出し中の若い萬作は、雑貨店と木炭卸の店を構えていました。井伏鱒二の出身地に程近いところです。
木炭の買い付けは、中国山地のど真ん中。三和、油木、東城一帯。
朝早くから買い付けに出かけても、帰りにはもうどっぷりと日が暮れています。

その日も馬車一杯に木炭を仕入れての帰り、最後の峠を下りかけようとした時の出来事でした。その日は月もなく、あたりは真っ暗、物音一つしません。

突然凍りついた馬を、力自慢の若い萬作が、どんなに押しても、引いても、ビクともしません。
よく見ると、ブルブルと小さく震えているでは有りませんか。

と、よく耳を済まして聞くと、峠の下のほうから、

『チリ~ン、チリ~ン。』

と、お遍路さんの鈴のような音が聞こえてきます。

そちらに目を向けると、何かボーと薄明るいものが、こちらに向かって上がってきます。

『チリ~ン、チリ~ン。』

明かりと音はだんだんと近づいてきます。

その明かりと音が、茂みの向こう側に登ってきて、見えたものはなんと!

お遍路用の鈴を手に巻いた白装束のお坊さんの死骸を、くわえて帰る大きなオオカミ。

当時は、中国山地には日本オオカミがまだ生息していたのです。

亡くなった人は全て土葬の時代。葬られて間もない遺体を、掘り起こしたオオカミがくわえて帰るところに遭遇したのです。

薄明るいものは遺体からでる人だま。数個の人だまがその周囲を照らしています。

鈴の音は、遺体の手に巻かれた鈴。オオカミの一歩一歩に振られて鳴っていたのです。

茂みの向こう側を獲物をくわえ、必死に帰っていくオオカミは萬作と馬に気づかない様子です。

馬と一緒に凍りついた萬作は、息を潜めてひたすらオオカミが通り過ぎるのを待つばかり。

薄明かりと鈴の音が、山の奥にだんだんと遠く消えていったと思ったら、馬がいきなり走り出して、手綱を握った萬作がついて走るのが精一杯。

あっという間に家に帰り着いたのです。

この話を祖母のいさみ婆さんに聞かされたのが、小学校低学年の頃、当時住んでいた田舎の家は、トイレが外にあったので、この後、夜トイレに行けなくなってしまいました。

そしてその後の萬作青年は、これに懲りず、次の日もまた次の日も、朝早くから山奥に出かけていきました。

そして、必死で働き続けた萬作は、やがて備後一円に販路を広げ、繁栄するのです。その後、広島県木炭業組合の理事長にまでなると共に、所有する水田は20町歩に迫り、広大な山林と畑を有するという大きな財産を残したのですが、子供に恵まれず、婿養子に迎えた甥に若くして先立たれ、その没後と終戦が重なり、農地解放によって全てを失い、ひと時の繁栄を見せた『こだま店』も跡形もなく消え、いまや元の土地で屋号として残るだけになっています。

教訓
「物としての財産を次の世代には残せない。」
「残せるものは、人としての生き様と、その精神。

かつてネット社会のさきがけの、楽天ブログに書き込んだ、思い出の文章にたまたま出会って、転記しました。